株式会社Replace
代表取締役 中谷 タスク
1982年生、一級建築士。京都造形芸術大学大学院修士課程修了後、株式会社長谷工コーポレーションに入社し、マンションをはじめとした建築意匠、マンション設計等に従事。2011年より株式会社E-DESIGNにてランドスケープデザイン(都市における広場や公園などの公共空間のデザイン)分野にて行政から民間案まで幅広いデザインを経験。2016年より遊休地のシェアリングエコノミー事業を展開する株式会社Replace設立し、現在に至る。
屋台のプラットフォーム「STAND3.0」を展開する株式会社Replaceの中谷氏に、起業の経緯、今後のビジョンなどを語っていただきました。
将来の独立を見据え、大手デベロッパーを選択
岩崎 子供の頃はどのようなことを考えていたのでしょうか。
中谷 子供の頃から会社員のような働き方は自分の中でイメージができず、大学に進学する意義も正直あまりもてていないような学生でした。そんな中でも興味があったのがインテリアの分野で、将来この分野で自分で商売が出来ないかと考え、調べていく中、建築家やインテリアデザイナーなどの仕事に興味を持つようになりました。
興味を持った理由には、仕事内容も勿論なのですが、このような仕事に就く方は最終的には自分の名前で独立するのが一般的であるということもありました。将来はそのような道で自分で商売が出来たらと漠然とした思いを持ち、京都造形芸術大学を選択したというのが経緯ですね。
岩崎 将来独立を目指されていた中、就職活動の時にはどのようなことを考えていたのでしょうか。
中谷 学校卒業後は上場もしている大手の建築デベロッパーに就職しました。最初のキャリアで大企業を選択した理由は、将来の独立を考えた際に、大企業で組織運営の仕方などを知っておくことは、後々何かと有利だなと考えていたというのもありますね。
入社後は建築意匠、マンションの建築設計などを担当させて貰いました。属人性の高い業界ながら設計から施工までの体制がシステマティックに出来上がっており、だからこそマンションを量産できる大企業の強さというものを感じたのを覚えています。
一方、当然ビジネスではあるので、ある程度型にはまったデザインが中心であり、イノベーティブな面白いデザインなどを自分が提案したいと思ってもできないというジレンマもありました。強い仕組みもある中、自分でなくても誰でもできるような建築デザインをしなければならない機会が多く、自分のありたい像とは違うかもしれないという違和感が徐々に強くなってきていました。
自分にしかできないデザインを形に
岩崎 そのような違和感からどのような行動をとられたのでしょうか。
中谷 4年半ほど1社目のデベロッパーで勤務した後、ランドスケープデザイン(広場や公園などの空間デザイン)を手がけるデザイン事務所に転職をしました。大学時代にランドスケープの分野を学んでいて、この分野には以前から可能性を感じていたんです。
1社目の仕事で学んだ内容と、ランドスケープの技術を組み合わせたようなサービスを自分で手掛けられれば、イノベーティブな面白いことができるのではないかなと思い、この決断をしました。2社目のデザイン事務所では、病院のリハビリ庭園、大学の広場などのデザインなどに携わらせて貰いました。また行政にデザインの分野で提案をし、地域を活性化させる街づくり系の仕事もさせて貰っていましたが、この経験は今の仕事にも繋がっている部分が多いですね。
そこから色々経験を積んでいく中で、「これからのデザインの形とは何だろう」と考えるようになりました。具体的には行政の案件を頂く中、行政は当然ながらその年度の予算の中を越えたプロジェクトを無理に仕掛けることは出来ません。また、今年は予算をかけることが出来ても、来年同じように予算をとれるかどうかも分からないのが現実です。
そのような構造を踏まえた際に「デザイン」の仕事は単発になりやすいという問題がどうしても起こります。継続的に街づくりや空間づくりをしていくのであれば、その提供した「デザイン」が生み出す収益の部分まで考えられた上で形にできなければいけない。そのようなことを考えた末に、事業とデザインが両立したサービスを提供したいと考え、33歳の時に起業することを決めました。
苦難の連続の創業期
岩崎 創業当初はどのような事業をなさっていたのですか。
中谷 創業当初はビルの屋上を活性化させると面白いのではと考え、ルーフトップBARのビジネスで創業をすることを決めました。ただ実績のない自分に物件を貸してくださる不動産会社、不動産オーナーさんがなかなか見つからず、場所探しに奔走していました。
1年くらい経ったタイミングで屋上を貸してくださる不動産屋さんが見つかり、そのタイミングで独立をしました。いい空間を作れば人はたくさん来るだろうと思っていたのですが、現実は甘くはありませんでした。正直、起業を舐めていたように思います(笑)。
最初の1年は身内を呼んでBARの経営を中心にやっていましたが、全然採算が取れず、デザインの仕事などで食い繋いで何とかやり繰りをしていました。1ヶ月振り返るとお客さんは全員身内じゃないかなんて月もありましたし、一見さんが来たことに驚いたりもしていた状況でした(笑)。それぐらい当時はしんどかったですね。
その後、BARの業態から転換し、屋上貸切のBBQプランなどを行ってみたり、スペースマーケットや食べログなどのサービスを活用したりと色々と試行錯誤し、なんとかトントンまで収益が得るようにまでは運ぶことができるようにはなりました。
ただこのビジネスを横展開して増やしていったとしても利益はほとんど残らないし、季節商売でもあるのでとても不安定。何よりネックに思ったのは、屋上でのビジネスなのでほとんどの人に気づいて貰えないという課題も強くありました。毎日、上を見ながら歩いているのは僕ぐらいですからね(笑)。これは事業としてなかなか続けることは難しいぞと思っていたのが当時でした。
転機となったJR西日本イノベーションズ社との提携
岩崎 現在の屋台事業をはじめたきっかけを教えていただいても宜しいでしょうか?
中谷 屋上での事業が難航していた中、このままではいけないと思い、新規事業を色々と考えていました。その新規事業案の一つとして当時流行りのキッチンカーの運営を考え、情報収集していたのですが、キッチンカーの値段を調べると外装の塗装など諸々含め、初期費用で300万程度かかると知りました。
うまくいくかどうかも不透明な中でここまでの投資は無理だと思いましたが、屋台であれば初期費用を抑えて立ち上げられるのではと思い、屋台での事業プランを検討していくようになりました。キッチンカーと比較しても提供できる品目にそこまで大差もありませんからね。
また、屋台のことを調べていくと、海外ではかわいい、おしゃれなものもたくさんあり、日本でもこのようなサービスを形にできれば流行るのではという可能性も感じていました。そうして実際に屋上に屋台を試験的に作ってみて、運営上の課題などの検証も進めていくことにしたんです。
そうしてこれまでは良い場所はないかと屋上をひたすら探していたのが、今度は空き地ばかりを探すようになりました(笑)。良いなと思う空き地やコインパーキングに「貸してください」と電話をしてみましたが、ここでも「実績がない」「屋台のような訳の分からないものには貸せない」などを理由に断られ続けていたのが当時ですね。
そうして場所を探し回っている時に、駐車場やアーケードの一部など町の一角を空間として貸してくれるサービスなどが伸びてきていることを知りました。始めは屋台も自分達で経営していく方針でいたのですが、こちらが土地・空間をプロデュースする立場になり、そこに屋台をセットで貸し出せばビジネスにもなる。そうすれば、一気に街の空きスペースが活性化でき、三方良しじゃないかと考え、事業をピボット(方向転換)させることにしました。
岩崎 そこから今のビジネスまでどのようにして形にされてこられたのですか。
中谷 事業の方向性は定まったものの、大きな課題は実績がない自分達には土地・空間をなかなか貸して頂けないことにあり、どうしようかと悩んでいました。そんな中、当時流行り出していたAirbnbやスペースマーケットのような会社がどのように成長をしてきたのかなどについて調べていたところ、スタートアップが自分達のビジネスプランをPRするビジネスプランコンテストというものの存在を知りました。そんな機会がないかと奔走していた際に、大手企業が協賛する大阪府主催のコンテストがあることを知りました。
優勝すればそのような大手企業の方との商談機会などを作ることができるのではないかという期待もありましたが、それ以上にこのような場で実績を出すことができれば社内のメンバーに、あらためて自分達の進む道が間違っていないんだということを示すことができればとも思っていました。事業の立ち上がりの中で何度も苦労を重ねていた中、社内も疲弊してしまっていましたからね。
結果的には特別大賞など2つの賞をいただくことができました。屋台事業に投資する資金(コンテストの賞金)を得られたことなど色々と嬉しかったのですが、デザインしか知らない自分達がビジネスの最前線を走ってこられた審査員の方々に評価頂けたことが一番嬉しかったですね。
また、そのコンテストで岡さん(岡 隆宏氏/一般社団法人日本スタートアップ支援協会 代表理事)と知り合えたことは非常に大きかったように思います。ビジネスプランコンテストに出場はしたものの、当時の自分達はデザインしか知らず、スタートアップという世界の在り方などについての理解はまったくありませんでした。
そんな中、資本政策についての指導をいただき、また運営される日本スタートアップ支援協会で開催されるピッチの場に参加させて頂く機会などをいただき、スタートアップの世界について学ばせて貰いました。岡さんとの出会いは一つの大きな転機と言ってもいいかもしれません。
もう一つ自分達の中で大きかったことはOSAP(OIHシードアクセラレーションプログラム)に採択して貰った中での経験、出会いかと思います。OSAPのご縁で株式会社JR西日本イノベーションズで当時代表をされていた和田社長との出会いがあったのですが、和田社長のはからいもあり、JR西日本さんとの連携もさせて貰えるようになりました。
JR西日本さんと連携させて貰った一号案件として、JR西日本が管理する敷地の一角を任せて貰う機会があり、そこでテイクアウト専門の屋台を出させて貰いました。その一号案件の実績からJR天満駅前のスペースで屋台をやってみないかと別部署の方よりお声掛けを頂いたんです。そんな形でお話が進み、「ほんまのYATAI 天満」プロジェクトに広がっていきました。
Replaceとして担当させていただいた当時のプロジェクトの多くは期間限定のイベントなどスポットのものが多かったのですが、天満のプロジェクトのように継続的に取り組ませて頂いたのは初めてだったと思います。
立ち上がりから良かったわけではないのですが、ありがたいことに今ではコンスタントにお客さんにも来て頂けるようになりました。このご縁で実績を出すことができたことは大きなターニングポイントになったように思います。
プラットフォーマーとして目指す「新しい商い」の形
岩崎 今後どのような事業展望をお持ちかお聞かせください。
中谷 新型コロナウィルス問題もそうですが、このような問題に直面する際に、社会構造などが大きく変わるものかと思います。例えば2020年の新型コロナウィルス問題をきっかけに、屋外で飲食することが注目されるようになりましたし、不動産開発が止まってしまった空間の活用などについてご相談などを頂く機会も増えました。自分達にとっては大変なことも多かったですが、追い風になることも多くありました。今はそのようなお話を一つ一つ大切に、形にしていけたらと思っています。
また、自分達が注目していることでいうと、技術の躍進もあります。自動運転などモビリティ技術が発展してきていますが、このような技術と連携することで、不動産に捉われない次世代屋台のような新しいサービス、新しい商いの形が生み出せないかなどといったことも考えています。
その他にも途上国のようにインフラが未整備な国でも、事業が展開できるような仕組みも生まれてくるでしょうし、そのような地域でこれまでの屋台運営ノウハウを活かした出店をしていくことなどにも将来挑戦してみたいなと考えてもいます。
そんな未来の実現のためにも、まずは目の前のプロジェクトをしっかり形にし、日本で屋台のプラットフォームを確立していきたいと考えています。これは自分自身が体験してきたことでもあるのですが、飲食店の新規出店はまだまだ初期投資も多く、リスクが多い環境にあります。自分達が良いプラットフォームを築き、チャレンジしたい人達が躊躇すせずに商いをスタートできる、そんな場をデザインしていくことが自分達の役目だと思っています。