世界屈指の商都「大阪」から世界を代表するスタートアップを
株式会社レスタス 代表取締役CEO 大脇晋 氏

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プロフィール

株式会社レスタス
代表取締役CEO 大脇晋

同志社大学卒後、ユニ・チャーム株式会社に入社。リテール営業で新人賞を獲得。その後、株式会社リクルートで新卒メディアの営業に従事。関西新規受注額ギネス、13Q連続達成という記録を持ち、関西全領域での支社MVPを3度獲得して殿堂入りを果たす。約5年半で600名を超える経営者と向き合い、その中で儲かる会社、伸びる経営者を感覚的に知る。 2011年に株式会社レスタス(旧:株式会社 名入れ製作所)を設立。

株式会社レスタス

「名入れカレンダー製作所byレスタス」など、複数のEC事業を展開する株式会社レスタス 代表取締役CEOの大脇代表に、リクルート在籍時に考えていたこと、起業の経緯、今後のビジョンなどを語っていただきました。

目次

商売の街でみた、商売人の浮き沈み

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岩崎 どのような幼少期、学生時代を過ごされたか聞かせてください。

大脇 生まれは大阪のど真ん中にある靱本町です。いわゆる「中小企業の町」で、周りは商売人ばかり。当時は高度経済成長からバブル経済へと駆け上がっていくところで、日本が最も盛り上がった時代です。僕の父は外資系の製薬会社に勤務していました。僕も兄も私立の男子校に入学して塾にも通わせてもらっていたので、相当な教育コストがかかっていたと思います。

家も持ち家だったので、今思えばサラリーマンにしては、比較的余裕がある家庭でした。幼少期はバブル黄金期で、みんなお金持ち。5000万のビルが5億円となり、それを担保にさらに投資へ費やす時代です。経営者の親を持つ友人が多かったので生活レベルの違いに驚くことが多く、その時にサラリーマンは所詮サラリーマンで、商売人はすごい!という考えが芽生えたように思います。

バブルがはじけたのが中・高校生のとき。裕福だった商売人たちが夜逃げ同然に引っ越してしまい、同級生も一人、また一人と退学。このアップダウンの凄さを目の当たりにして、商売人の生き方は怖いなと感じました。このとき、父のようなサラリーマンは堅実で安心だなと、強く思ったことを覚えています。

岩崎 経済の浮き沈みをとても身近に感じてこられたわけですね。

大脇 活動では、アップダウンが激しい経営者より、堅実なサラリーマンの道を選ぼうと考えました。バブル崩壊後の就職氷河期で求人も少なく、最終的に営業職としてユニ・チャームに入社することに。最終面接の時にはオムツを履いて面接を受け、当日に内定を頂きました(笑)。九州配属となり小売店への卸営業からスタート。

はじめて卸先のドラッグストアに行ったときは「大阪弁を直せ!」と言われ、九州で大阪弁は嫌われていることを知りました笑。それでもやっているうちにお客様に可愛がって貰い、営業の仕事は楽しく順調でした。一方で、僕が足を運んでも運ばなくても売上はさほど変わらず、自分の営業としての成果が明確ではないことに退屈さも感じていました。

突破力が爆発したリクルート時代

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岩崎 リクルートへの入社の経緯、入社当時のことをお聞かせください。

大脇 営業としてもっと勝負がしたいと思い、営業のメッカなリクルートに転職することを決めました。幸い、当時のリクルートは就職情報誌「Being」からWebサイト「リクナビNEXT」へ移行を進める拡大期だったため、数年振りの中途社員採用として2004年に入社。営業部に配属となり、300社くらいの顧客リストを貰って朝から晩まで1ヶ月かけて回っている内に月間・四半期目標を早々に達成し、順調な滑り出しでリクルートでのキャリアがスタート。このあたりは、ユニ・チャームで培ったルートセールスの経験が発揮されたと思います。

すると「HR総合企画部」という、優秀なエリートが集まる本丸ともいえる営業部に異動になりました。はじめは他所から来た変わり者扱いで人間関係に少し苦労もしましたが、目標は当たり前の様にすべて達成し続けました。そして数千万円規模の大型受注を決め、MVPを連続で獲得し、部署の達成にも大きく貢献できるように。すると2年目からはエースの扱いになり、完全に勝てば官軍でした。

リクルートの営業で見えた「良い経営者の条件」

岩崎 当時は多くの経営者の方と対峙してこられたそうですね。

大脇 そうですね。社長との新規商談は僕に頂けてもらえるようになりました。そうして色んな社長と毎日顔を合わせていると、伸びている会社と伸びていない会社の違いが明確に見えるようになってきました。具体的には、伸びていない会社の社長は、何かにつけて人のせいにする傾向があります。例えば「広告で人数が集まらないから会社が伸びない」「優秀な人が採用できれば会社は伸びる」「良い人を集められない広告が悪い」などです。当然ながら、それは本質的な話ではないですよね。

逆に伸びている会社は、小さな枠の求人広告でも多くの優秀な人材から応募がありました。社長の強い理念や強いサービス・プロダクト、事業の将来性があったので多くの人の心が動かされたように思います。この時に「会社の存在意義」、「競合優位性」、「魅力的なビジネスモデル」を考えるのが経営者の仕事だなと感じました。

岩崎 当時は経営者の方とどんなお話をされていたのですか。

大脇 好き勝手に色々聞いていたと思います(笑)

-社長の夢は何ですか?事業戦略やビジョンは?
-事業計画見せてください! ない!?無くて経営ってできるんですか!?
-人員計画がない!?このビジョンには血が通ってないじゃないですか!
社長、まずは一緒にここから考えましょう!

など様々な小生意気な質問をしていましたが、向き合ってくださった社長にはどうやって実現するかまで徹底的に詰めていきました。そうすることで社長にもコミットして頂き、二人三脚で進めていきました。後から聞いたお話なのですが「大脇の営業は、断りにくいねん」と言われていたみたいです(笑)。

26~28歳の営業マン時代は今思えば怖いもの知らずで、ここぞという時の営業突破力は手前味噌ですが、尋常ではなかったように思います。その背景には、商売人の町で育ったことが大きいですね。所詮、社長といっても、誰かのお父さん。緊張したり、遠慮したりすることはない。むしろ言いたいことをズバズバ言ってくる人に魅力を感じるのだと思っていました。

幼少期から日常的に商売について感じとっていたので、知らず知らずのうちに嗅覚が磨かれていたのだと思います。この社長と一緒に走らせて貰った経験が、今の事業提携や交渉にも生きているのかなと思います。新卒ではサラリーマンとして生きることを選択しましたが、社長という生き方はやっぱり格好良いなと、あらためて思うようになったのもこの時期でした。

リーマンショックのど真ん中で起業

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岩崎 リーマンショックの中で起業を決断された経緯をお聞かせください。

大脇 当時は仕事の中心が徐々に育成や部全体の運営などになり、以前のような高いエネルギーで営業の仕事ができなくなっていました。ビジネスマンの旬をこのまま過ごしていいのか・・・。そんな時にリーマンショックがあり、社内で希望退職を募っていたので、あっさりと退職を決めました。

転職という選択肢もありましたが、社長にあれだけ偉そうに営業をしていたのだから、自分も社長をやってみたいという気持ちが大きくなっていました。リーマンショックで景気が悪いこのタイミングで事業を始めて、成功できたならすごいやん! と思考を切り替え、起業したのが始まりです。

2011年に「株式会社TOPPA」という社名で会社を立ち上げました。最初はいままで経験してきた人材事業からスタートしましたが、人材事業はやり切ったという思いもあり、毎日のように新規事業を立ち上げるためにビジネスプランを考えていました。例えば、北新地での靴磨き事業やゴルフ場のクーポン事業など。その中で一番面白く、これならいける! と思ったのが名入れカレンダー販売事業でした。

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岩崎 なぜこの「名入れカレンダー製作所」を始めようと思われたのですか。

大脇 AmazonをはじめEコマース企業が台頭してきていましたが、カレンダーの様なオーダーメイド商品は手間がかかるのでAmazonや楽天は逆に参入が難しいだろうと考えました。そうして300万円でこの領域に特化したUI・UXのECサイトを作り込み、残りの貯金残高500万円すべてを広告費に回しました。これでお金がなくなれば、諦めてもう一度サラリーマンしようかなと腹を括りました。

実際にサービスをリリースすると、大成功とまではいかないものの手応えはあり、1年目で約2,700万円の売上が立ち、利益も残すことができました。翌年には多くのお客さんにリピートをして頂き、年々利幅が高くなって事業が加速していきました。この好循環なサイクルをつくれたことは、僕にとって大きな気づきでした。

ほとんどのEコマースや事業は売上が伸びたとしても、その分だけ費用が嵩んで儲からない。実際に黒字倒産やそれに近い状況に陥るEコマース事業者は少なくありません。「名入れカレンダー製作所byレスタス」は、毎年安定的にキャッシュも残すことも出来たので、これはEコマースの定説を覆す良い事業だなと思いました。そして新たな商材を増やし、またシステム化も進めることでコストも下げていき、収益性の高い事業へと成長させていきました。

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