“九転十起”の先に描く、日本の未来
SAKURAISEグループホールディングス株式会社 代表取締役社長 粕井 健次 氏

プロフィール

SAKURAISEグループホールディングス株式会社 代表取締役社長
天創堂株式会社 代表取締役社長
アメネスク株式会社 代表取締役会長
粕井健次

1985年奈良市生まれ。2007年「3年で起業」を宣言し、モバイルインターネット関連のベンチャー企業に入社。テレビ局公式モバイルサイトの企画運営を担当し、過去最高の会員数を2度更新。2009年10月に天創堂株式会社を設立し、10期連続増収、創業対比150倍の売上成長を達成。2020年に新型コロナウイルスの影響で売上が97%減少する危機を経験。2021年、アメネスク株式会社を設立し、奈良市の起業家育成プロジェクトに認定。地銀から地域社会に貢献するビジネスモデルとして賞を受賞。2022年から3年間で売上15倍のV字成長を果たす。2024年、SAKURAISEグループホールディングス株式会社を設立。「日本の魅力を再発見し、世界中に感動を届ける」を掲げ、100社・1,000億円規模の企業グループを目指している。

著書 九転十起 ~売上97%減からの逆転劇(2025年)

天創堂株式会社をはじめとした複数の事業会社を擁するSAKURAISEグループホールディングス株式会社の粕井健次氏に、起業の経緯、今後のビジョンなどを語っていただきました。

目次

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親友の死が教えてくれた「生かされている意味」

岩崎 どんな幼少期を過ごされてきたのか聞かせてください。

粕井 僕は奈良で生まれ、商売も政治も生活に近い環境の中で幼少期を過ごしました。同居していた祖父は繊維の卸会社を経営、祖母の弟の大叔父さんは広告代理店を経営しながら市議会議員を務めたりと、一般的な家庭と比べると変わった環境だったかもしれません。

祖父と出かけてお店にいった際には「客数×客単価」で売上を計算しながら、このお店はどれぐらい儲かっているのかという会話が当たり前に飛び交うような日々を過ごしていました。商売人としての素地はこの頃に無意識に養われたんじゃないかと思います。

また、市議会議員の大叔父さんが動いてくださり、自分が通う中学校の老朽化していた体育館を新しくしてもらった経験も印象に残っています。新しい体育館で学校生活を過ごせる喜びを感じ、人の暮らしを良くするような仕事ができれば素敵だなと漠然と考えていたのを覚えています。

岩崎 小学生時代のある出来事で人生の価値観が大きく変わったと伺いました。

粕井 はい。小学校6年生の冬、親友を病気で亡くす経験をしました。卒業を目前にした12月末のことで、元旦にはその親友が生前に投函していた年賀状が家に届くというぐらい突然の出来事でした。

あまりにも若すぎる死に、人生の終わりはいつ訪れるのかはわからないという真理に触れた瞬間でもありました。健康に生まれ、生かされていることは当たり前ではない。だからこそ与えられた時間を最大限に使って挑戦したいと思い、卒業アルバムには「一度しかない人生を友達の分まで一生けん命生きていきたい」と綴ったのを覚えています。

竜馬に導かれ四国の地へ

岩崎 そこからの学生時代はどのように過ごされたのですか。

粕井 思い切り生きたいという気持ちとは裏腹に、中学・高校時代はなかなか自分の中で燃えるものを見出せず、悶々とした日々を過ごしていました。高校は進学校だったのですが、勉強を強いられる環境に反発してしまい、受験も第一志望には届かずという結果に。大学進学後もなかなか燃えるものを見出せない日々が続いていました。

自分を変えたいと思っていた中、大学2年生の夏に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読む機会がありました。「竜馬がゆく」を読んだ際に、自分と同じ年齢の竜馬は江戸に修行にいき、日本を変えるために命がけで行動したのに、自分は一体何をしてるんだと一念発起し、四国一周の一人旅に出ることにしました。

竜馬ゆかりの場所など四国の地を巡り、時には野宿をしたりと色々な経験をしましたが、一人旅を通じて、自分の中にある感情、感性と向き合うきっかけになりました。そして「自ら行動すれば未来は変わる」という感覚を得られたように思います。

それからは行動してみることを大切に、色々と挑戦するようになりました。その一環で学生団体の代表をし、OB社長にお話をいただく講演会の企画運営をしていた中、多くの経営者が一度きりの人生を思い切りチャレンジしている姿に感銘を受けるようになりました。そして自分もゼロから価値を生む人生を歩んでいけたらと思い、起業という選択肢を具体的に意識するようになりました。

「3年で起業する」——宣言を実行した会社員時代

岩崎 大学卒業から起業までの歩みを聞かせてください。

粕井 「3年で起業する」と決めて就職活動にのぞみ、成長産業で若くても裁量がある会社を探していました。就職活動ではコンサル、物流、金融、エンタメ、メーカーなどあらゆる業界の話を聞きに走りまわっていましたが、最終的には、当時、設立最短上場を果たし、勢いのあったモバイルインターネット事業を展開するベンチャーに飛び込むことを決断しました。

就職してからはとにかくガムシャラに働いていました。会社まで徒歩5分のところに家を借り、会社の仮眠室で寝泊まりしたり、熱が出ても点滴をうって仕事に戻ったりとワーカホリックな働き方をしていたなと思います。同期が36人いたのですが、同期の中でナンバーワンにもなれない人間が会社を起業して成功するなんてできないだろうと自分にプレッシャーをかけながら仕事にのぞんでいましたね。

入社1年目に会社で新規事業を提案するビジネスプランコンテストのような機会があり、これは自分を成長させるチャンスだと思い、深夜まで考え抜いたプランを提出しました。結果、グランプリをいただくことになり、考えたプランを営業部がそのままお客様に提案しにいくといった貴重な経験もさせて貰いました。

その後、3年目にはありがたいことに同期の中で唯一、幹部候補に選ばれました。しかし、起業への覚悟はすでに固まっており、辞退の旨を申し出、入社前に掲げた「3年で独立」という目標どおり、起業の道を選びました。

岩崎 「天創堂」という名前はどのようにして考えられたんですか。

粕井 天創堂は「理想の社会=”天”を“創”る”堂”(会社)」という想いを込めてつけた名前です。会社設立と同時に「超エコ割」というGPS連動型クーポンサイトの運営をスタートしましたが、サービス名を社名にしなかったのは、サービスは手段で、目的ではないからです。僕が会社・事業を通じて実現したいのは「日本を元気にする」ことにあり、それはずっと今も持ち続けている想いでもあります。

ビリケンさんとの出会いが導いた再起とご当地ビジネスの原点

岩崎 創業当初はどんな事業をされていたのですか。

粕井 最初は東京で起業するつもりでしたが、立ち上げる事業の第一号顧客が関西で決まりそうだったので大阪で創業することにしました。アクセスの良さと賃料のバランスが取れた場所を探し続けた末に、淀川の向こうに梅田のビル群が見渡せる西中島南方のマンションの一室と出会い、そこで会社を立ち上げました。

当時は自社モバイルサービスを立ち上げ、3年で100億円の事業をつくると信じてスタートしましたが、いざ走りだすとシステムは動かない、ユーザー獲得もうまくいかない、キャッシュは一気に減っていくという苦難の連続でした。焦りや失望感の中で走り続け、結局、続けられる資金が尽き、やむなく撤退することになりました。

岩崎 そこから存続して成長した経緯を聞かせてください。

粕井 その後はまず飯を食っていくために受託の仕事をすると決め、2〜3年はホームページ制作、集客支援、システム開発などの受託をして再起を目指していました。そんな中、地方の名産品を集めるECサイトの運営をさせてもらう機会があり、テレアポやFAXで顧客開拓をする中で「ビリケンさん」の商標を持たれている会社さんからお仕事を受託することができました。後から振り返るとこのご縁は天創堂にとって大きな転機になりました。

最初はホームページの運用だけを行っていましたが、新たなキャラクターデザインの立ち上げ、グッズ企画・開発、着ぐるみの制作やSNSの発信、イベント運営やEC販売などを提案し、実現していきました。グッズ売上は過去最高を記録し、やがてライセンス管理・運用全般を任せていただけるようになりました。

この仕事をやってるとき、すごくおもしろかったんですよね。たとえば、人生ではじめて大阪に観光に来て、通天閣でビリケンさんの足を撫でて幸せを願った帰り道、土産物店で手に取った小さなビリケンさんのキーホルダーは、ただの雑貨ではなく、その日の想い出や願いまで詰まった宝物になる。

観光やご当地の仕事がおもしろいのは、そうした「想い出に触れるもの」をつくれるからだなと思ったんです。決して必需品ではないけれど、これがあることで人生が豊かになる。そんな価値が確かにあると思ったのと同時に、この商売は日本を元気にしたいという創業時の想いにもピッタリ合うものがありました。

岩崎 再起の道を見出せてからは天創堂はどう変化していったのですか。

粕井 ライセンス事務局をさせてもらっていた中、外国人観光客が多く訪れる大手量販店さんから「ビリケンさんの商品を取り扱いたい」とお問い合わせをいただきました。当時はインバウンド観光客が年間1,000万人弱から3,000万人へと拡大する局面で、店舗が次々オープンする開店ラッシュのタイミングでもありました。

そんな中、ビリケンさんの商品だけでなく、「北海道から沖縄までを一度に買える棚を10本任せたい」などのご要望を短納期でいただくようなことが多く、お応えできるように奔走していました。深夜まで陳列作業にあたるなど大変なことも多かったですが、新店オープンを迎え、自分が発掘・開拓をした北海道の銘菓を外国人観光客が手に取っていく様子を見たときは、本当に嬉しかったですね。

岩崎 順調な成長の中で、組織運営に苦しんだ時期もあったそうですが。

粕井 創業から10期連続で増収をしましたが、成長の裏側で社員の退職が相次いでしまった事がありました。振り返れば、自分の未熟さが原因だったと感じていますし、社員の相次ぐ退職を目の当たりにし、“経営は人だ”と痛感する経験でもありました。

そこからは人の得手・不得手などを踏まえた適材適所の組織運営、バックグラウンドの異なる社員同士で共通認識をもつためのクレド(※)導入など、一人ひとりが活躍できる環境づくりに力をいれていくキッカケにもなりました。

※企業全体の従業員が日々の業務で心がける、具体的な行動指針や価値観のこと

経営危機の中で見出した新たな未来

岩崎 コロナ禍でのお話を聞かせてください。

粕井 コロナ禍で外国人観光客が途絶え、2020年3月に売上95%減少、6月には売上が97%減にまで落ち込みました。生死をわける局面の中、最終的には整理解雇に踏み切らざるを得ませんでした。

ある社員は状況を理解し、会社に負担をかけまいと自ら早期退職を申し出てくれ、その心遣いに申し訳なさが込み上げ、思わず涙が止まりませんでした。「粕井さんは悪くない」と一緒に泣いてくれたあの場面は、社員の生活を守れなかった悔しさとともに、二度と同じ目に遭わないための強い経営基盤を形にしなければと心に誓った出来事になりました。

この危機は変わらなければいけない機会と捉え、一人でこもり、事業と自分のこれまでを徹底的に見つめ直しました。そして会社がこの事態に陥った本質的要因は、インバウンド市場への過度な依存にある——そう結論づけました。インバウンドは数年で必ず復活する、その果実は取りに行く。ただし、依存はしない経営をすると決めました。

それからはコロナ禍で本業が赤字の中ではありましたが、アメネスク株式会社という新たな法人を地元奈良で創業し、別業態のリユース事業をゼロから立ち上げました。これまでの事業と全くシナジーがない新規事業への挑戦は大勝負でしたが、なんとか事業化に繋げることができ、業種・業態を超えても成果をあげられるという自信を得ることができました。

岩崎 経営危機の中で新たな未来を見出されたのですね。

粕井 はい。そして2024年9月には持株会社となるSAKURAISEグループホールディングス株式会社を設立し、グループ経営体制へと移行しました。ホールディングス化の目的は大きく二つあります。

一つ目は、日本を元気にするソリューションの選択肢を増やすこと。
二つ目は、安定しながらも急成長できる会社をつくること。

一つ目は、起業当初から掲げてきた「事業を通じて日本を元気にする」という想いを、より多様な会社や事業体で社会に還元していきたいという考えがあります。

二つ目は、コロナ禍で社員の生活を守れなかった悔しさを二度と繰り返さないという、僕自身の誓いでもあります。あの危機の中でもリスクを取って加わってくれた仲間たちには心から感謝しています。これからもその想いを忘れずに、一緒に挑戦し、共により良い未来をつくっていきたいと思っています。

挑戦の総量を増やし、日本を元気に

岩崎 SAKURAISEグループホールディングスが目指す未来について聞かせてください。

粕井 まだグループ売上は十数億円規模ですが、将来的には「年商1,000億円を超える新たな流通企業グループをつくる」という目標を掲げ、日々挑戦を続けています。実現のためにも既存事業の成長は勿論、新規事業、M&Aでのグループインも進め、成長カーブをさらに引き上げていきたいと考えています。

グループで挑戦する事業は「日本を元気にする事業」であることが大前提です。日本には世界に誇れるたくさんの魅力があります。僕たちが日本の魅力を引き出し、新たな価値を創造し、そして幼少期の僕自身がそうしてもらったように、未来にバトンをつなげていきたいと思っています。

そんな未来を実現するために大切なのは挑戦できる環境だと考えています。僕自身、本当に多くの挑戦、失敗を重ねてこれまで前に進んできました。挑戦なくして成功はありません。SAKURAISEグループホールディングスでは大きな裁量と責任、そして本気の挑戦の場を用意させてもらうことで挑戦を後押しし、挑戦の総量を増やしていきます。そして挑戦を積み重ねながら、僕たちが掲げる“日本を元気にする”というミッションを果たせる存在に成長していきたいですね。

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