多くの方に支えて貰った恩を、次の世代へ送ることが自分の使命
株式会社ペイフォワード 代表取締役 谷井 等 氏

tanii
プロフィール

株式会社ペイフォワード
代表取締役 谷井 等(たにい ひとし)

神戸大学卒業後、日本電信電話株式会社に入社。1997年に合資会社DNSを設立(2000年に株式会社インフォキャストに再編)、2000年に楽天株式会社へM&A。同年インデックスデジタル株式会社(2005年にシナジーマーケティングに社名変更)を設立し、2007年に大阪証券取引所ヘラクレス(現JASDAQ)上場。2014年にはヤフー株式会社へM&Aし、2017年に同社を退任。2019年にシナジーマーケティング社を買い戻し、取締役会長に就任。同時に持株会社となる株式会社ペイフォワードの代表取締役としてPRコンサルティング事業「ハッピーPR株式会社」など複数の事業会社を経営。

株式会社ペイフォワード
シナジーマーケティング株式会社

IPO(新規株式公開)、2度のM&A(バイアウト)、さらには2019年のシナジーマーケティング社への復帰など関西のベンチャーをこれまで牽引されてきた株式会社ペイフォワード 代表取締役の谷井代表に、これまでの起業家としての挑戦、またベンチャー支援家として見るこれからのベンチャーの在り方などを語っていただきました。

目次

起業のきっかけになった阪神大震災

tanii

岩崎 学生起業されたきっかけを教えてください。

谷井 阪神大震災が学生起業の大きなきっかけになります。当時は神戸大学の3年生で、同窓生が31人亡くなり、その中には僕の親しい友人も1人いました。震災によって友人は瓦礫の下に埋まってしまい、他の友人と共に助けようとしたのですが、ガス漏れによって近くで火災が起こり、結局助けることができずに彼は亡くなってしまいました。

彼の人生は突然地震によって失われました。その出来事から、自分自身の人生もいつ終わるか分からない、だからやりたいことは今すぐやらなければいけない、という何か見えないプレッシャーに苛まれる感覚がありました。そして地震直後から数ヶ月間、泊まり込みでボランティアをしながら、「僕は何をしたかったのだろう、何のために大学に来たのだろう」と日々悩んでいました。そこで出た答えは、いつか自分で事業をやりたいと思って神戸大学の経営学部を選んだのだから、「いつか」ではなく「今すぐ」やろうというものでした。そこで、学生のうちに起業することを決意しました。

初めての事業は大学の教科書転売でした。関西の5大学にチラシを配って学生より教科書を買い取り、原価から500円を上乗せして販売する学生ベンチャーを立ち上げました。この事業によって関西圏にいる学生のリストができるので、そこからアルバイトの斡旋、さらには当時インターネットが普及し始めた時代でしたので、学生ポータルの企画などを展開していました。事業が拡大するとテレビなどのメディアにも紹介されるようになり、それがきっかけでさまざまな企業にも興味を持っていただくことが増えました。例えば大手企業と一緒に学生向けのビジネスを考える、といった機会などもいただきました。

岩崎 順調に成長していた事業をやめて、NTTへの就職を決められたのはなぜですか。

谷井 当時、とあるベンチャー企業の社長とお話させていただく機会があり、そこで事業内容をお話しさせていただいた時に「君は一生、中古の教科書販売をやっていきたいのですか。一生やっていくつもりがないのであれば、人様に迷惑をかけるのでやめた方が良いのではないでしょうか」と言われました。

正直、その頃は目の前のことに一生懸命で、あまり先のことは考えていませんでした。この言葉をきっかけに「自分自身がどうありたいか」をもう一度見つめ直し、一生やっていきたいと思える事業ではないなと感じ、学生限りで辞めようと決めました。自分がどうありたいかを見直し、その後の世界に進むことを決めたきっかけになったこの社長との出会いは、今振り返ると人生のターニングポイントの一つだったかもしれません。

NTTに就職するも9カ月で退職

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岩崎 NTTに入社されたきっかけと、入社後どのような仕事をされていたか教えてください。

谷井 学生起業で事業のために初めて自分でパソコンを買い、活用したことで、これからのITの世界に大きな可能性を感じました。卒業後はITを使った事業をやりたいと考え、ご縁のあったNTTに就職を決めました。入社後は、法人営業部の西宮支店に3か月間の仮配属となりました。当時の法人営業部では、他社で電話回線を契約している企業に電話をかけて、NTTへ契約切替を促す、という営業スタイルが主流でした。

ただ、僕は自分に手渡された電話番号リストには手をつけず、震災でボロボロになった商店街に行き、そこでインターネット体験フェアを企画して商店街にある店舗の電話回線やFAXの契約をまるごと取るという仕組みを進めていきました。勝手に大々的に進めていたことを会社に怒られましたが(笑)。そして仮配属の期間を終える頃、ITの最先端技術が活用されている部署へ配属を希望したのですが、結果的には法人営業部に配属となりました。自分が挑戦したかった仕事ではなかったので、辞表を出し、12月末には退職しました。

仲間3人で起業した合資会社を楽天へM&A

岩崎 NTT退職後はどのような生活をされていましたか。

谷井 退職後は実家に帰り、毎日昼過ぎに起きて、夕方になったら飲みに行き、明け方までブラブラするという生活をしていました。そんな僕を見かねて「毎日両親が働いているのに何とも思わんのか!」と親に怒られ、父が経営している洋服店で働くことになりました。

岩崎 洋服店で働くなかで、再び起業に至った経緯は何ですか。

谷井 父からは毎年赤字続きとなっている梅田の店舗を任されました。実際に働いてみると、明らかにお客様になり得る店前の通行人と商品構成がフィットしていない、という課題が見えてきました。そこで、お客様にフィットしそうなデザインや価格の商品を探すために全国をまわりました。そんな中でご縁を頂いた京都のスタートアップブランドと取引を進め、店舗の商品構成を変えていきました。更に、販促の為にメールマーケティングの仕組みなどを進めた結果、店舗収益を黒字化させることに成功しました。

しかし、黒字にはなりましたが、自分で一から作った事業ではないですし、親の七光りだと思われるのも嫌だったので、「やはり自分で事業を起こして売上を作りたい」と思うようになりました。手元にあるお金は数十万円だったので、友人と夜な夜なビジネスアイデアを語り合い、小資本で始められる合資会社DNS(デジタルネットワークサービス)を3人でスタートしました。

岩崎 創業当初はどのような形でスタートされたのですか。

谷井 創業当初は当然売上もないので、昼間は各々別の仕事をして、夜中にプレハブ小屋へ集まる日々でした。当時は無料のメーリングリストサービスの提供を目指していたのですが、開発できるメンバーが誰もいなかったので、世界中のインターネットサイトから探し、メールサーバソフトを見つけ出しました。それをインストールしたパソコンを15万円で購入し、1997年にサービスを開始しました。

岩崎 サービス開始後はどのような状況でしたか。

谷井 サービスは好調で、ユーザ数は半年で約3倍まで増えました。この成功要因は当時のマーケットの成長予測と事業戦略がうまく噛み合ったからだと考えています。1997年当時の国内のインターネットユーザは数百人程度でしたが、今後1億人規模までユーザ数は拡大するという仮説を持っていました。その1億人は、言うなれば最初は全員「初心者」というフェーズを通ります。そこで、「初心者に優しいサービス」を徹底すれば確実にファンが増えて勝てる、という戦略を立て、サービスを開始しました。

その当時に実践し、今もシナジーマーケティングのポリシーとして引き継がれていることが「101点のサービス」です。例えばコミュニケーションの最後に「どういたしまして」と一言だけでも返すことで会話を自分達で終わらせない、といった些細なことから、Excel の使い方を教えるといったようなことまでしていました(笑)。そのようなことを積み上げていくうちに、ファンがどんどん増えていきました。

しかし、僕達には技術力がなかったので、当時は何万件というメーリングリストを手作業で処理していました。そんな体制がユーザにも筒抜けだったようで、ファンになって貰ったお客様から「よければ101点のサービスをサポートしますよ」と、手伝っていただけるようになりました。

そのような支援もあってユーザが約30万人まで拡大した頃、僕達にとっては追い風となるインターネットバブルがやってきました。ベンチャーキャピタルから出資のご提案をいただき、初めて出資を受け、資金を使い、新設した株式会社インフォキャストに事業を移管しました。そしてオフィス契約、人材採用、広告宣伝に資金を投入し、3カ月ぐらいで資金が尽きましたが、早々に追加の資金調達に向けて動き、積極投資を進めていきました。この頃には、当初から目指していた「メーリングリスト内に広告枠を設け、その広告により収益を得る」というビジネスモデルが出来上がっていました。

岩崎 そのような中、楽天へのM&Aを決めたのはなぜですか。

谷井 この頃、楽天をはじめ複数の企業から合計で2.4億円を調達しました。ただ直後にネットバブルが崩壊し、当時1,300万人ものユーザを抱えるアメリカの競合企業が、IPOに3回チャレンジするも結局IPOできずにヤフーに買収されるという出来事がありました。ヤフーは日本にも進出しており、自分達のビジネスで今後拡大を目指すには分が悪いと判断しました。最終的には役員会で楽天に会社を売却するという方針を固めました。

CRMサービス「Synergy!」誕生、大阪証券取引所ヘラクレス上場へ

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岩崎 売却後、どのようにシナジーマーケティングが生まれたのでしょうか。

谷井 会社を売却する前からメーリングリスト事業とは別に、メーリングリストを利用頂いた企業に対して、今度は「ユーザリテンションのサービスを提供しよう」と動いていました。これには実家の洋服店を建て直した時に、顧客データを活用したメールマーケティングで成功できた実体験もあり、自分の中で次に狙うべきはここだという確信の様なものもありました。この事業の準備は進めてはいましたが、会社売却の時点ではまだリリースしていない状況でもあり、この事業のみを切り出して会社にしました。これがシナジーマーケティングの前身となるインデックスデジタル株式会社になります。

当時は、企業が顧客データを持たず、配信するだけの無料のメールサービスが主流でした。ただ企業側のマーケティング観点で考えると、顧客データは企業が資産として持つべきだと考え、メール配信機能に顧客データ管理の機能を加えた形で有料サービスとして提供を開始しました。このサービスがシナジーマーケティングが今も提供し続けている、CRM(Customer Relationship Management)サービスの原点になります。

そして当時もう一つ考えていたのは、投資余力がある国内大手の有名セレクトショップと、投資余力のない実家の洋服店の格差は広がるばかりであるという現実でした。「機会の平等は絶対に担保されるべきだ」という思いがあり、小さな会社には安く、大きな会社には相応の値段で提供するという料金体系(顧客データの数に応じて料金が変動する従量制課金)を考え、サービス導入を進めていきました。

岩崎 サービス提供開始後、順調に導入は進んだのですか。

谷井 いいえ。当時はCRMなんて言葉は勿論、メールマーケティングという言葉さえもなく、マーケットがまだ生まれていない状況だったこともあり、営業活動にはかなり苦労しました。1件導入を頂いたとしても、月額数千円の積み重ねでしたので、売上もなかなか伸びません。しかし社員の給料は払わなければならないので、何でもかんでも必死に仕事を頂きながら自転車操業で経営を進めていき、ようやく損益分岐を超えたのは設立から3年目の頃でした。

ただ、損益分岐は超えたものの、売上の大半はサービスの利用料ではなく受託開発でした。社内では安定的に売上の見込める受託開発中心で事業を進めたいという意見も増えてきました。このような空気に対し、僕は毅然と「僕達は販促のメールマーケティングのシステムを提供するASPベンダーだ」と言い続け、当時はよく役員や社員達とケンカをしながら自分達の在り方を貫き通しました。あの時期に受託開発中心へ方針転換をしていたら、恐らくCRMサービスは無くなり、会社の成長も無かったと思います。

岩崎 そこから「Synergy!」誕生までにはどのような経緯があったのでしょうか。

谷井 マーケットが成長し始めた頃、自社の強みはメール配信システムとしての質でした。つまり、メーラーからスパム判定をされ、きちんと届かないメール配信システムが多い中、当社のシステムはしっかり届けることができる強みを持っていました。その強みを武器にマーケットシェアの拡大を進めつつも、今後のマーケットの変化を見据えたていた中で、「待てよ」と一度立ち止まりました。お客様が顧客データを持ってコミュニケーションを進めていく際に、「誰がメールを開いたのか」というようにデータを分析したいというニーズが生まれるのではないだろうか。その分析により、顧客のその先の行動を予測したくなるはずだ、という仮説を立て、事業を見直すことにしました。

その結果、メール配信技術に特化した事業をやめて、顧客データをためるデータベースが価値の源泉になるサービスに作り変えを進めました。それが現在のシナジーマーケティングの主力商品である「Synergy!」です。ただ、「Synergy!」の開発を進めたくても、当時の社内の技術力だけでは難しい状況でした。そんな中、エンジニアを採用するか、外注するか、会社をM&Aするかを考えた結果、技術力の高かった四次元データという開発会社とのM&A交渉を進めていきました。

そのM&A資金捻出のために資金調達を実行し、カルチャーの違う2社の統合を目指した新体制への移行を進めました。そして2006年にはシナジーマーケティングに社名を変更、2007年に大阪証券取引所ヘラクレス(現JASDAQ)に上場しました。

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